◆◆◆新版「資本論」の研究◆◆◆

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#003_1:ポル・ポト派と中国文革派の関係

1986年9月12日、井川和久氏のアジア親善交流協会での講演より

 60年代のカンボジアと中国は友好関係にありましたが、66年に中国で文化大革命(毛沢東派の「四人組」による中国共産党内での権力闘争が本質*ykb)が始まると、文革派はポル・ポト派の赤色クメールを指導下に置いた。当時の赤色クメール(カンプチア共産党)は国内にはほとんど支持層を持たない小勢力でしたが、70年にシアヌーク追放クーデターが起きてロン・ノル政権が生まれ、同時にアメリカ軍の侵攻でカンボジア戦争が始まると、この小勢力がにわかに重要な地位にのしあがった。それは、彼らの参加したカンプチア民族統一戦線(FUNK)が、まるまる中国の援助と指導を受けて、米国やロン・ノル政権と戦うことになったからです。
 72年までFUNKの名でカンボジアで実際に戦闘したのは、主に北ベトナムと南ベトナム解放民族戦線(「民族解放戦線」が正しい*ykb)の軍隊ですが、その背後でFUNCKを議長のシアヌークもろとも牛耳っていたのは、中国の文革派でした。赤色クメールはその文革派の直系集団として中国援助の窓口をひそかに独占し、やがてFUNCK現地指導部を乗っ取ることができた。シアヌーク殿下は彼らの実験支配を隠すための看板にすぎませんでした。
 75年のFUNCKの勝利と同時にポル・ポト派の政権を生み出したのは、実に文革中国です。ポル・ポト政権は文革中国の代理政権だったと言ってもいいでしょう。(中国国内の*ykb)過激な文革派は1977年に打倒されましたが、その後の中国の非文革政権は文革派のカンボジア政策を踏襲し、ポル・ポト政権を支援し続けました。いまも(1987年*ykb)丸抱えにしているのは、こういう70年代以来の経緯によるものです。(「新版 カンボジア黙示録」井川一久、田畑書店、1987年、p392〜p393)

 なお、ポル・ポト政権下での死者数についてはポル・ポト政権崩壊議の新政府の調査では300万人以上と言われています。(同前、p447)

2025年4月22日 ykbdata

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