#091:『資本論』第三部への補足と補遺 Kp1587〜p1627
これはあえて読まない方がよいと思います。Kp1588 訳注*
「剰余価値と利潤率」は、第三部を1894年に刊行させた後に行なわれた、ローリアのマルクスへの「剽窃」攻撃に対するエンゲルスの反論およびゾンバルト、シュミットらの批評へのエンゲルスの論稿であり、「取引所。資本論第三巻のための補注」は、エンゲルスが1891年に執筆した未完の草稿であることを解説しています。
Kp1589〜p1590 〔価値法則と利潤率〕
冒頭の訳注ですでに解説した内容です。「まえがき」のようなものですが、マルクスへの敬意から本文の訂正ではなく、補足とすることが述べられています。
エンゲルスの最晩年のこの論稿は、特に後半の歴史的考察の部分はマルクスの理論からすると、正確でない部分が多いとykbdataは思っています。
一 価値法則と利潤率 Kp1591〜p1622
ローリアは、エンゲルスがこの「価値法則と利潤率」の原稿を書いた1895年には、まだ38歳とおもわれる若いイタリアの経済学者で、第三部のエンゲルスによる「序言」で史的唯物論の発見は「決してマルクスによって1845年(ドイツ・イデオロギー執筆)になされたのではなく、ローリア氏によって1886年になされたのである」(Gp34)と、あざ笑われた人物で、ykbdataの#048:第三部とはなにか・・・エンゲルスの「序言」では「俗流経済学者」としただけで名前も紹介しなかった人物です。
なお、「一 価値法則と利潤率」とあるので「二…」がありそうですが、ありません。
Kp1591〜p1595 「この二つの要因のあいだの…」〜「しかし、これにはちょっと…」
ローリアの「剽窃」攻撃に対して、エンゲルスはかなり感情的な批判の言葉を並べますが、ykbdataとしては、ローリアは間違っているだけでなく退歩していると思います。ローリアは、マルクスが第一部で解明した価値はさしあたり、交換価値として現象することを、解明前の状態に、すなわち「価値は交換比率だ」という表面上に認識に後戻りしているのです。
Kp1595〜p1598 原注(一)
ここでのエンゲルスのローリア批判は、ハイネや旧約聖書まで出て来て、エンゲルスの博学ぶりがすごいですが、ちょっとしゃべり過ぎの感じです。
Kp1598〜p1599 「ヴェルナー・ゾンバルトは…」
ゾンバルトは雑誌に「マルクスは全体として優れている、やるべきことは反駁ではなく、さらに発展させることだ」と評論を寄せていますが、価値法則を資本主義的生産様式以外の歴史的経済出来事にも貫かれているというのは広げ過ぎだとエンゲルスは批判しています。
Kp1599〜p1600 「一八九五年二月二五日付の…」
同じ雑誌にシュミットが投稿した優れた論文では、『資本論』はこれまで解決できなかった平均利潤率の問題にはじめて回答を与えている、これはローリアへの直接の回答になっている、とエンゼルスは評価しています。
Kp1600 「シュミットもまた…]
しかしそのシュミットも価値法則は資本主義的生産様式の解明に理論としては必要だが、それ「擬制」だと言っていると批判しています。「擬制」とは、価値法則は価値の実在を証明する確証ではなく、資本主義的生産様式の運動を理解する上での仮説だ、ということだと思います。
Kp1600 「ゾンバルトにおいても…」
これに対してエンゲルスは、価値法則は歴史的な過程と思考におけるその反映、すなわち今は埋もれている本質と現象との内的諸関連を正しく理解するものだということが、ゾンバルトもシュミットも分かっていないと批判しています。
Kp1601 「決定的な個所は…」
歴史の地層に埋もれた「価値」の本質と資本主義的生産様式の表層の「利潤率」という現象についての「決定的な」論証部分を挙げています。これはこの部分以降のことを言っています。
すなわち、「価値」通りの交換は、生産価格が「価値」から乖離する前のより低い段階しか必要とせず、「価値」を「単に理論的にだけでなく歴史的にも生産価格の先行者≠ニみなすことは、まったく適切」であり、しかもこれは「古代世界においても近代世界においても…見いだされる」と実証材料があることを匂わせますが、これがMEでもなかなか見つかりません。
Kp1602 「もしマルクスが…」
「第三部をもう一度練り上げることになったとすれば、彼は、疑いもなく、この個所をもっとずっと詳しく論じたであろう」と、エンゲルスはこの点を補足するよと宣言します。
Kp1603 「われわれのだれもが知っているように…」
社会のはじまりは自給自足の共同体社会で、共同体外のだれかと交換する目的の生産物はありませんでした。それが剰余生産物が自覚されるようになると、まずは諸部族の共同体間で交換が始まり、やがて共同体内でも交換が行われるようになりますが、それは共同体の家父長的な家族への分解(ykbdataはこれにはそのまま同意できません)の原因ともなりますが、それでも交換はわずかな部分にとどまります。
Kp1603〜p1604 「さて、このような…」〜「同じことは…」
この部分は、先ほどMEのなかで見つけられなかった実証材料について、エンゲルス自身の経験、すなわち「私の若いころにもまだライン地方の農家を順番に訪れて…」と、仕立て屋も靴屋も農民の目の前で衣服や靴を仕立てあげたので、農民は仕立て屋や靴屋の労働時間を容易に知ることができたと、必要労働時間が交換の唯一の尺度だったと述べています。
しかしこれは原材料のための必要労働時間は把握できないため、根拠薄弱です。そうならざるをえないという、第一部でのマルクスの論理展開を超えるものではないように感じます。むしろこの時期までは手工業者の労働は具体的有用労働の性格が前面に出ていた事例としてはいいと思います。
農民と都市手工業者とのあいだの交換も、お互いの労働諸条件が知られて入れて、同様だというのも、同じように根拠薄弱です。わずかながら耕作地と家畜を持っていたというのは、イギリスで独立農民が主流であった時代の農村労働者(貧農)でさえ、わずかであるが耕作地と家畜を有していたということで、都市の手工業者もそうだとは言い切れません。
Kp1605 「しかし…」
ここからは、マルクスの論理展開からのエンゲルスの想像であって、ここも根拠薄弱です。無数の交換によって労働の量が交換比率を規定するようになるということは第一部のこちらで展開されています。マルクスは史実ではなく、論理の力で「価値」を導き出しています。マルクスは価値法則の科学的認識には完全に発達した商品生産が必要であると言いきっており、エンゲルスの補足も史実と言うにはお粗末です。
Kp1606〜p1607 「労働時間による…」
ここは、第一部の「価値論」(第1章及び2章)と「貨幣論」(第3章)のまとめ的な論述で、読んでもらえばいいです。
Kp1607〜p1608 「ひとことで言えば…」
数千年前のエジプト文明などから商品交換は始まっており、「単純商品生産」(賃労働が存在しない資本主義的生産様式以前の農民や手工業者による交換を目的とした生産)がはじまる15世紀にいたるまで平均価格は価値と一致していたという、これもエンゲルスの想像です。農民や手工業者は生産手段を所有し、その生産物はすべて生産者のものになり、搾取は存在しません。しかし、それが価値通りの交換の十分条件にはなりません。
Kp1608〜p1610 「これまでわれわれは…」
単純商品生産から資本主義的生産様式に移行するうえでの商人の役割について、資本論の内容を回顧しています。農村のマルク共同体、都市の同職(人)組合、さらには海外貿易を誕生させた商人組合(たとえばハンザ同盟)は閉鎖的で、その内部では商品の価格は一定していたと言っています。
しかし同職組合は交換のための価格の一定をめざしたというよりは、組合内の支配被支配の関係を許さない、組合内の安定をめざす封建制に対応する形態だったのではないでしょうか。だから商人(資本家)は同職人組合が支配する部門には裏側からこっそり入って来た訳です。
ツンフトからハンザ同盟までマルク共同体のやり方と同じだったとは、言い過ぎではないでしょうか。
Kp1612 「ここではじめて…」
単純商品生産から資本主義的生産様式に代り、初めて利潤および利潤率が(海外貿易)商人の観念を捉えると言っています。資本の大きさによる利潤の配分という資本家の共産主義がマルク共同体の原始共産主義からの分枝だというエンゲルスの論は、16世紀までに平均利潤率が成立していたという無理な話で、「否定の否定」のたとえ話にしか聞こえません。
同職人組合からハンザ同盟まで、資本の自由な移動による利潤率の均等化ではなく、その逆に資本の移動の禁止が支配していたのですから。
Kp1613 「この(海外貿易の*ykb)最初の利潤率は・・・」
海賊などの危険のせいで高い保険料を含み、非常に高かった、外観的には独占貿易だった、それは当時の高い利子率にも反映していた、と言っています。
Kp1613〜p1614 「しかし…」
その高い利潤率も組合の内部、ある都市国家内の国民に通用しただけで、その利潤率もそれぞれ違っていたと言っています。しかし、ここも資本主義的生産様式が前提されておらず、貿易商人のあいだの利潤率の均等化傾向があったとしても、総価値と総価格の一致とは言えません。これまでエンゲルスの博学ぶりのひけらかしに聞こえます。
最後の、必然的な経済的勃興を政治的事件が促進するという話は、ナポレオンの征服戦争によって共和制が広まったなど、悪事によっても歴史が進歩するというヘーゲルの歴史哲学です。
Kp1614〜p1615 「いまやそれに続く…」
大航海時代とともにヴェネツィアなどの貿易都市の同職組合による貿易独占は崩壊し、平均利潤率は組合内の規律から競争上の問題に発展したと言っています。
Kp1616〜p1617 「ここまでわれわれの知った利潤率は…」
産業資本による資本主義的生産様式は未発達で、これまでの手工業者による単純商品生産は資本に剰余価値をもたらさないから、これまでの利潤率は商業資本の利潤率だった、それは独占貿易による国外あるいは国内の買い手から得る(特別)利潤だったが、独占貿易の時代の終わりには外国との競争で国内での商品価値(これはエンゲルスの言い過ぎで独占価格が正しいと思われるが)よりも安く輸出するようになった、と言っています。独占価格についてのマルクス独自の規定はこちら。
エンゲルスはこの「現象」について、「こんにちの世界――すなわち、国際貿易と卸売業においては生産価格が適用し、他方、都市の小売業では価格形成がまったく別の利潤率によって規制されるこんにちの世界――とは正反対である。」と、その例としてロンドンで販売される国内産牛肉よりアメリカのシカゴから輸入された牛肉の方が安いということを言っていますが、これは的外れだと思います。
地代のないアメリカの原野で放牧される肉牛は、イギリス国内で生産される肉牛より生産価格そのものがずっとが安いわけで、「別の利潤率」によって規制されているわけではありません。イングランド農業の地代を含む高い(超過)利潤率については「地代論」で解明されています。
Kp1617 「価格形成における…」
「独占価格」からの「生産価格」への変革を徐々に引き起こしたのは産業資本であったと言っています。中世でも船舶業、鉱山業、繊維工業で賃労働が生まれ、たとえば鉱山業では最初は労働者の組合だったがやがて賃労働者を用いる株式会社に転化したと、「徐々に」ではない急展開の論述をしています。
Kp1618 「ここにわれわれが見るのは・・・」
前段で上げた三つの部門のうち繊維工業だけは、直接に(はじめから)「資本家的計算で生産された諸商品を市場に出しが、これと競争する従来の問屋のような商人資本はとうやって生き残ったかと、エンゲルスは物語を進めます。
Kp1618〜p1622 「商業資本の利潤率は・・・」〜「マニファクチュアが…」
ここでエンゲルスが展開している商業資本における回転の影響は、かつてykbdataが小商人の薄利多売で指摘したように、エンゲルスがマルクスによってだまされたままの論理です。しかも、資本の回転の計算で生産時間と流通時間をゴチャにした例はまったく混乱しています。生産期間が2か月で年6回回転する生産資本から商品を安く買う商業資本の回転期間が2年となるためには、例えば喜望峰回りの東インド貿易で片道10カ月、往復20カ月以上の以上の流通期間が必要で、これを度外視していますし、これでは回転が速くなる例にはなりません。しかも、安く売るのは他の商業部門に比べての話しで、エンゲルスも「商業資本の(平均*ykb)率はすでに存在していた」と認めて求めているように、同じ商業部門内では販売価格(商業価格)は平均化していますので、部門内では資本の回転が速くても利潤率は変わりません。エンゲルスは、回転論でマルクスにだまされたまま、この補足と補遺を書いてしまいました。
産業資本の回転による利潤率への影響について、マルクスの真意をエンゲルスも訳者も研究者も理解していません。それと同様に、そのことを理解して、商業資本についてのこの部分を解説している研究者をykbdataは知りません。この「補足と補遺」は、そのことの理解なしに読んではいけません。
Kp1623〜p1627 取引所
1871年あるいは72年に書かれたにしては、あまり新しい意味のない論考です。蓄積(剰余価値)の急増で投資先が見つからず取引所が騰貴と詐欺の舞台になったといいたいらしいですが、すでにマルクスによって第三部第5篇で展開されています。
株式の募集がやりやすいように、恐慌(破産)での資本家の身の破滅を救うために有限責任の株式会社が発明されたということだけは意味のあるこのとです。
冒頭に述べた通り、ここはあえて読む必要はありません。というよりは、以上のことを理解したうえでないと、読んではいけません。それを理解したうえで、ykbdataのように、理論的価値や真偽は別として、マルクスやエンゲルスが何を言っているのかすべて読み解こうという人はよく読んでください。
ykbdataは今後、逐条解説の拡大と読解の精査を、命と能力がある限り続けます。
2026年1月8日 ykbdata
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